テレワークについて

今日は、タイトルの通り「テレワークについて」思うことを書いていきます。

コロナ禍で突然導入された「テレワーク」というものが、自分に何をもたらしたのか?ということを思い出すたびに書いていくつもりです。
「テレワーク」は、前回のブログで取り上げた「守秘義務」と同じくらい心に引っ掛かり続けているテーマです。
緊急事態宣言の頃、コミュニケーションの方法を大きく変えてしまう「テレワーク」が現れて、導入することを余儀なくされてしまった人は多いと思います。
その時に感じたことを思い出して、取り合えずアウトプットしていくことは、これからのコミュニケーションを考えていく上で、大きなヒントになりそうです。
だから、今日は、一番初めの「テレワーク」について書いてみるつもりなのです。
緊急事態宣言の頃、しばらく会社に行ってはならないということになった、その時のことです。
職場は、業務の都合上デスクトップ型のパソコンを使っている人が多かったです。
多くの人が、家にノートパソコンを持って帰ることができなかったので、私用のパソコンから遠隔で、会社の自分のパソコンの画面に入るというスタイルを取ることになりました。
その時私は、テレワーク自体がとても辛いという風には感じなかったです。
初期だったし、まだ非常事態に対して緊張感もあったのだと思います。
でも、それまで必死に取り組んできた効率化が、白紙に戻ったようには感じていました。遠隔では何を動かすのも遅かったし、特にPDF化に時間がかかったのを覚えています。
実のところ、デジタル化とか効率化とかを支えているのは、紙の存在だったり、2画面目の大きなスクリーンだったりします。
デジタル化の本流を支えるためのツールがないと、処理速度はびっくりするくらい落ちてしまいました。何をやっているんだろう?と空しくなるくらい。
ダラダラとできることをやっていくしかなかっから、効率化が命だったことの意味が、少しずつ削がれて行ったのを覚えています。徐々にやる気がなくなっていたのだろうと、今なら思います。いつもやる気があるフリをするタイプの私でもです。
ただ、それまで過剰に人と交流していたから、強制的にできることが限定されてしまって、一時的に深い休息がもたらされました。長い間体験したことがなかったくらいの、深い眠りにつけたのを覚えています。
その時は、テレワーク自体の弊害とかを考えても仕方ありませんでした。緊急事態なのだから、弊害があるのが当たり前。別にみんな望んでやっていることじゃないんだから、という感じです。
でも、時間が経つにつれて、不安は膨らんでいったのだと思います。
テレワークが可能になってしまうことになって、こういう風にも仕事がこなせてしまうことや、ずっと続いてしまうかもしれないことへの不安。
たまに出勤する職場で、お昼ご飯を一緒に食べないだけで、他の人のことが全然分からなくなってしまうんだなということをリアルタイムで目撃して、大きな衝撃を受け続けていたのだと思います。
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